『模倣犯』読了。
Netflixで台湾版『模仿犯』を観て、「あれあれ?これってどんな物語でしたっけ?」と思い、手にとりました。
週刊ポスト連載時には読んでいなかったので、2001年に出版された単行本を読んでいた記憶があるのですが、文庫1巻、1ページ目から、まったく覚えていませんでした。
記憶にあるのは、森田芳光監督、中居正広さん主演の映画『模倣犯』のほうばかり。
2002年に公開された映画で、中居正広さんがスポーツカーに乗ってるシーンがあったような、なかったような???
とにかく、当時の自分が、物語の筋だけを追って読んでいたことに気づくとともに、読んでいたことを確実に思い出したのは文庫4巻のラストでした。
3部構成、文庫5巻の大作
『模倣犯』の連載がはじまったのは1995年。
連載に丸4年、単行本になるまでに2年もかかったという作品です。
これまで、映画化、ドラマ化がなされていますが、いずれも評価は厳しいようです。
その理由は、だれを主人公に据えるか、そしてどの視点で描くかによって、読者の評価が変わってしまうからではないかと思います。
森田芳光監督の映画では、ピースこと網川浩一を中居正広さんが演じていました。
スクリーンで観たときに、「中居正広さん以外にピースはありえない」と思ったことを覚えています。
それぐらい、原作のピースらしい配役だったと思います。
映画版は、ピースが主人公で、ピースの視点から描かれていたと記憶しています。
原作小説では、映画版は、第2部から第3部が主軸になっていると思われます。
ドラマ版は、2016年に中谷美紀さん主演で制作されています。
中谷美紀さんは、最後にピースと対峙する前畑滋子を演じています。
このドラマ版は、たぶん録画して観た記憶があるのですが、残念ながら、よく覚えていません。
ピースは坂口健太郎さんが演じていたようです。
で、最新のNetflix版は、物語のはじめに登場する塚田真一という犯罪被害者で、家族の中で唯一の生き残りという少年がいますが、この少年が成長し、検察官(日本では刑事かな)として、事件を捜査するという設定になっています。
全10話を通して、物語を進める役柄として、成長した塚田真一が良い、と考えたのかもしれません。
原作のなかでは、将来は刑事にならないか、と誘いたかったという、デスク刑事・武上の述懐も出てくるので、これがヒントになっているのかも。
原作のほうでは、塚田真一は高校生なのですが、複雑な事情により、事件を追う前畑滋子の前に登場し、彼女の庇護を受け、取材を手伝うような立場になっていきます。
その過程で、さまざまな人と出会い、とくに豆腐屋を営む有馬義男(被害者の祖父)と親交を深めていく中で、自分自身が背負っている罪がどんなものなのか、客観視できるようになっていく、成長物語が物語全体を引っ張るような形となっています。
台湾版『模仿犯』では、清廉潔白を絵に書いたような主人公として登場し、原作小説と同じようにピース(台湾版では使われていません)に弄ばれたりします。
そして、前畑滋子のポジションには、ルームメイトが殺された女性が、テレビ局の下っ端として登場します。
ドラマの中盤くらいから、検察官と協力する場面が増えていきます。
主人公を誰にするのか、によって作品が変化するというのが『模倣犯』だということが、3作を比較するとわかるかもしれません。
もし、つぎに映像化されるのであれば、デスク刑事・武上の視点で描いてほしいと思いますが、いちおう台湾版は警察の視点で描かれているので、ダブっちゃうかな。
ちなみに、映画版は一度しか見ていないので、どこかで配信していただけるとうれしいです。
小道具としての携帯電話
『模倣犯』を読んでいて、時代を感じたのは携帯電話です。
警察の捜査手法として、よくドラマなどに登場する逆探知が、携帯電話ではできないという説明があります。
正しくはできないのではなくて、基地局までしかたどれない、ということなのですが、携帯電話を持っている人がそんなに多くなかった頃、警察がどこまで何をわかっているのかについて、第2部あたりから詳しく描かれるようになっています。
しかしながら、回収できていない伏線なのかな?もあったようです。
ひとつは、子どもが拾った壊れた携帯電話は、警察の手元に届けられたのか?
壊れていても、データとかは読み取れると思うのですが、当時はできなかったのかな?
もうひとつは、犯人に仕立て上げられた、蕎麦屋の気の良い高井和明が電話した電話相談室に、音声データが残されていたのかどうか?そして声紋分析は?
携帯電話を使用するピースたちと、「携帯電話なんてわからん」という層が確実にいる、そんな時代背景が描き出されています。
さらには、連載がはじまった1995年は、のちにインターネット元年と言われるのですが、ネットで語られる事件情報を警察が参考にするかどうか、微妙な時期であったこともわかります。
SNS以前のほうがドラマ展開が劇的になる?
『模倣犯』のまえに、澤村伊智さんの『邪教の子』も読んだのですが、どちらもSNS以前の物語です。
『模倣犯』は、インターネット草創期の作品なので、SNSは登場するはずがなく、携帯電話がやっと出てきたくらいの時期。
『邪教の子』は、SNS後の作品ですが、あえてSNS以前に設定しているようです。
台湾版『模仿犯』も、1990年代の台湾を部隊にしているので、原作に忠実といえば忠実ですが、現代に置き換えてしまうと、話がややこしくなるからなのではないか、と原作を読んで感じました。
たとえば、テレビ番組や写真週刊誌よりも先に、一般市民がスマホで写真をとり、SNSに気軽にアップできる時代には、ピースが目指したような台本に現実味がなくなってきます。
劇的な舞台、劇的な展開というのが、ごく一般の小市民によって、どんどん崩されていってしまう。
それが、SNS後の時代だと思うからです。
物語の冒頭に、公園で女性の右手が発見される、という劇的なはじまりも、SNS後の社会では、警察が登場する前に、発見者が写真をSNSにアップしてしまう、そして、野次馬がやってくる、という話になるでしょう。
そこに、第一発見者としての塚田真一という少年がいたことや、水野久美という少女が登場しても、重要人物として描きにくいと思うのです。
だれもが目撃者になり、誰もが報道できる時代とは、物語を考える作者にとって、複雑になりすぎているようにも思いました。
そして、もし『模倣犯』をSNS後の設定で書いたとしたら、文庫5巻にはならないかもしれません。
もっとコンパクトになってしまって、物語の面白さが半減するかもしれない、と思ってしまいます。
人物描写が細かい
はじめに、読んだことを思い出したのは文庫4巻のラストだった、と書きました。
その理由が、今回読んでみてわかったような気がします。
人物を描写するためのエピソードだけでなく、生活、服装、経験や体験など、登場人物ひとりひとりをきちんと描いています。
誰が絶対的に正しい、という書き方はしておらず、それぞれに事情がある、という書き方です。
最初にミステリーを読むときは、どうしてもあらすじをつかみたいと思ってしまって、人物の描写、特に心情面については、読み飛ばしてしまいがちだからです。
たぶん、そういう読み方が、私の記憶から『模倣犯』という名作をすっかり忘れさせていたのではないでしょうか。
そんななか、ピースについてだけは、家庭環境や家族について最後まで描かれません。
それは、彼の心の闇というのを、家族に求めたからだと思います。
最近のドラマや小説などでは、ピース的な役割の犯罪者が登場することが増えてきているように思いますが、サイコパスとかソシオパスとか、そういう言葉で表現してしまっていて、背景をもっと知りたいと思っても、あまり描かれていないことがよくあります。
台湾版『模仿犯』では、一連の犯人は、ピースのようにどんどん目立つ発言をするようになり、テレビ局の花形キャスターに上りつめます。
これは、原作のピースが目指したこととは、少し違うように感じます。
ピースは、すべてを自分の手のひらのなかに置き、自分だけの作品として犯罪を紡ぎ出していきます。
どっちがイカれているか?といったら、原作のピースのほうが、ずっとイカれてると感じました。
その後の裁判すら、自分が主演する舞台と考えているなんて、どんだけ自意識過剰なんだか、という感じです。
SNS後の時代では、自意識過剰な人物は、ネットの世界で自分の欲望をかなり満たすことができるので、ピースが現代にいるとしたら、YouTuberだったりするのかもしれません。
再読してみて、『模倣犯』は、人間の物語であり、家族の物語なのだ、と感じました。
文庫版は、毎日1冊くらいのペースで読めれば、1週間はかかりません。
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