【由水 常雄】「天皇のものさし―正倉院撥鏤尺の謎」





天皇のものさし―正倉院撥鏤尺の謎」読了。

由水 常雄さんという方が、正倉院の御物である撥鏤尺(ばちるじゃく)を追い続けた40年以上にもわたる謎解きの物語です。

天皇のものさし―正倉院撥鏤尺の謎

由水 常雄 麗澤大学出版会 2006-02
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由水さんは今年81歳になる方。

ガラス工芸の専門家であり、プラハのカレル大学大学院にも学んだという、ある意味、工芸品については筋金入りという方です。

その由水さんが2007年に上梓したのが、この「天皇のものさし―正倉院撥鏤尺の謎」です。





撥鏤尺(ばちるじゃく)とは?

象牙に染色して、彫刻を施したものさしのことです。

象牙に染色といっても、15年は染料に浸すという途方もないもので、中国で造られた度量衡の基準となるものさしになります。

唐から宋の時代に造られた撥鏤尺が正倉院の御物として残されていて、紅牙撥鏤尺、緑牙撥鏤尺など、うつくしく染色されて彫刻を施された撥鏤尺は、実は日本にしか残っていないのです。

現代の価格にしたら1枚数億円という国宝クラスの宝物です。

そもそも、わたしがこの本を手に取ったのは、慧日寺という最盛期には3800もの子院があったという大寺院が福島県内にあり、そこに平将門の娘が「瑠璃尺」と呼ばれた撥鏤尺をもたらしたということを知ったためです。


正倉院御物の亡失

正倉院の御物が持ち出され、売られていることを知る人はあまりいないかもしれません。

そもそも正倉院は、聖武天皇の妻であった光明皇后が、聖武天皇の死後に聖武天皇が大切にしていた御物を東大寺に奉献したところから始まっています。

その時の目録が「東大寺献物帳」というもので、天平勝宝八歳6月21日に作成されたものです。別名「国家珎宝帳」。

この目録も5種類もあるという謎の多いものですが、このときの目録では、
  • 紅牙撥鏤尺2枚
  • 緑牙撥鏤尺2枚
  • 白牙尺2枚
の6枚が記録されています。

しかし、その後、撥鏤尺は増減を繰り返します。

そして、もっとも多くの亡失が認められたのが、明治5年に全国社寺宝物調査が行われて以降なのです。

ちなみに明治2年に廃仏毀釈が行われて、仏寺の宝物が散逸しはじめていたころです。


正倉院御物を売り払ったのは誰か?

明治5年の全国社寺宝物調査は、東京国立博物館初代館長の町田久成を団長とするものでした。

このときの公式記録「壬申検査古器物目録」は東京国立博物館に原本が所蔵されています。
が、著者の由水さんによると、どうも内容が異なるものが複数あるようです。

このときの記録では、
  • 紅牙撥鏤尺8枚
  • 紺牙撥鏤尺2枚(緑も青も区別が明確ではない)
  • 白牙尺2枚
  • 未造了白牙尺2枚
  • 染牙撥鏤尺1枚(色不明)
  • 牙尺4枚
  • 白木尺1枚
  • 水牛尺1枚
となっていました。

明治15年にも正倉院の御物が調査され、その時の公式目録である「正倉院棚別目録」には、
  • 紅牙撥鏤尺6枚(2枚減
  • 緑(紺)牙撥鏤尺2枚
  • 白牙尺4枚(未造了のものと牙尺を含めて8枚から4枚減
  • 染牙撥鏤尺0枚(1枚減
となっていて、たった10年の間に6枚も失われているのでした。

もちろん、撥鏤尺以外にもたくさんの御物が、この期間に失われていると考えられています。

しかも、タチが悪いことに、江戸時代の適当な調査には記載のなかった宝物中心に失われているというのです。

これは専門家の仕業です。


犯人は蜷川式胤

正倉院御物の亡失に大きくかかわっていたのは、蜷川式胤(にながわのりたね)でした。

町田久成に従い、高橋由一・横山松三郎らと明治5年の全国社寺宝物調査を、専門家の立場から指導した人物です。

蜷川式胤は、エドワード・S・モース(大森貝塚発見者)とその友人で大富豪のウィリアム・スタージス・ビゲロー(日本古美術最大のコレクター)のアドバイザーとして、彼らのコレクションに深くかかわっていました。

日本文化への造詣の深い蜷川式胤には、海外からのコレクターが集まってきたようで、シーボルトやフェノロサとも交流がありました。

その蜷川ですが、明治5年の全国社寺宝物調査のときの様子を細かく日記に書いています。
もちろん目録も!です。

しかし、著者が「壬申検査古器物目録」と蜷川の日記を比較すると、「壬申検査古器物目録」には記載があるにもかかわらず、蜷川の日記には全く記載のない宝物がいくつもみつかります。

そして疑惑が決定的になるのは、蜷川式胤の死後の売立て目録に正倉院の宝物が見つかり、しかも2000年には蜷川家の人物から
「蜷川家の蔵に撥鏤尺があり、正倉院にお返ししたい」
という言葉を著者は聞くことになるのです!!!


蜷川式胤と町田久成

蜷川式胤は、明治15年8月にコレラで急死。
著者は病死ではなかったのではないか、と推測もしています。

それはなぜかといえば、おなじく明治15年3月に東京国立博物館(東京帝室博物館)の初代館長となった町田久成がなぜか10月には辞職し、大津市にある三井寺に入ってしまうのです。

明治15年といえば、改めて正倉院の宝物が調査された年です。

撥鏤尺が4枚も紛失したことがわかった年です。

そして、その他の御物もたくさん亡失したことが判明しています。

著者の由水さんは、明治15年の調査で宝物の亡失の事実を知り、その責任をとって蜷川は自殺し、町田は仏門に入ったのではないかと推測しています。

蜷川式胤は、専門家として、正倉院の御物を間近に見て、手に取ることができる立場にありました。

しかも、正倉院宝物は通常は非公開ですが、1875年(明治8年)〜1880年(明治13年)には奈良博覧会が毎年開催され、その一環として、東大寺大仏殿回廊で正倉院の宝物が一般に公開されていました。

そして、蜷川式胤が1875年(明治8年)の奈良博覧会のために、再び正倉院へ出張したことがわかっています。

明治5年の調査時にはすでに、めぼしいもののリストはできていた蜷川ですから、3年後の奈良博覧会は、御物を盗み出す絶好のチャンスだったことでしょう。

加えて、明治8年の博覧会では、天武天皇から聖武天皇まで6代の天皇が愛蔵してきた「赤漆文欟木厨子(あかうるしぶんかんぼくずし)」の扉の片方が1枚紛失してしまうのです。

紛失した扉は、この博覧会の関係者でもある、奈良県副知事の藤井千尋の自宅で発見され、のちに返却されることになります。

この顛末にはあきれてしまいますが、この大騒ぎの陰で、ひそかに多くの宝物が失われていったのかもしれません。


文化財泥棒は国賊であり売国奴

明治初期の正倉院の宝物亡失に大きくかかわった蜷川式胤ですが、ニーズ(需要)があったからこそ、であったのも事実です。

先述したモースの陶器コレクション(ボストン美術館蔵)は、そのほとんどが蜷川式胤が集めたものといわれています。

そしてビゲローのコレクション(ボストン美術館蔵)は、「非公開」を原則とした日本古美術品のコレクションなのです。

このビゲローのコレクションには、正倉院の宝物が多く収蔵されていると考えられています。

また、国内では、三井・三菱・住友といった財閥が正倉院の宝物を所蔵していました。

しかし、ニーズがあろうと、散逸に手を貸した人物は国賊です。

人類の宝でもある正倉院の宝物を持ち出し、あろうことか外国人に斡旋するなど、あってはならないことです。

最初に書いたように、中国には紅牙撥鏤尺のように美しい基準尺は残っていません。

その国の人々が文化財として大事にしなければ、生産国にすら残されないのが美術品であり、文化財です。

天皇のものさし―正倉院撥鏤尺の謎」を読むうちに、ふつふつと怒りがわいてきました。

著者の由水常雄さんは、40年以上も探し、謎の解明に当たっていたわけですから、その怒りは相当なものではなかったかと想像します。


上質な歴史ミステリーとして「天皇のものさし―正倉院撥鏤尺の謎」を読まれると、明治初頭の様子が伝わってきます。


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