「クスノキの番人」読了。
ミステリーといえばミステリーですが、スピリチュアルな内容?かもしれません。
大人のおとぎ話かな。
クスノキが念を伝える
「クスノキの番人」とは、文字通り、クスノキの面倒を見る人のことです。
このクスノキには不思議な力があり、人々は、クスノキの力を利用して、「心の中=念」を、同じ血筋の人間に伝えています。
この物語は、突然、クスノキの番人になるように強制された主人公が、少しずつクスノキに秘められた謎に迫り、一人前の番人となるというストーリーです。
新月と満月
「クスノキの番人」のなかで、新月と満月では、違う機能があることが、次第に明らかになっていきます。
日常生活の中でも、新月と満月を意識して生活している人が、少なからず存在します。
新月は、新しいことを始めるタイミングであり、目標を設定するとき。
そして、満月は、成果を刈り取るとき。
読みながら、そんなことを思い出しました。
「クスノキの番人」では、新月には念を預ける「預念」、満月には念を受け取る「受念」を行うのです。
一種の遺言のようなもので、「預念」する人物と、「受念」する人物は異なります。
音楽を受念する
「クスノキの番人」のストーリーを面白く展開させているのは、何度も受念にやってくる男と、その娘の存在でしょう。
娘は、父親の浮気を疑っていますが、男は、兄の預念を正しく受け取り、兄が作曲した音楽を形にしようとしていたことが、物語の後半でわかります。
念とは、形にならない気持ちの隅々まで、クスノキに預けてしまうこと。
そのため、兄の念を、弟として受け取った男は、兄の念を形に残そうと奔走します。
音楽は、楽譜にでもしない限り、後世に残せるものではありません。
モーツァルトが、天才だと認識されているのは、数多くの楽譜が後世に残されたからでした。
著者の着眼点の鋭さが、この物語を成立させていると思います。
複雑な人間の心を伝えるには?
「クスノキの番人」を読んでいて、自分の気持ちを客観的に分析して、相手に伝えるのは、実はとてもむずかしいことなのではないか?と感じました。
たとえば、「才能は認めるけど、親しく付き合いたくない人」がいたとします。
才能はみとめているわけですから、そこには賞賛の気持ちと羨ましさ、多少の妬みなどが含まれているかもしれません。
または、相手の人間性に問題があるため、トラブルに巻き込まれたくないから距離を置こうと考えているのかもしれません。
「才能は認めるけど、親しく付き合いたくない人」に対して、自分の心にやましいものがあって距離を置くのと、相手の人間性とか言動が好きになれなくて距離を置くのでは、大きな違いがあります。
しかし、クスノキに念を預けてしまえば、さらに複雑に絡み合った気持ちが、相手に伝わります。
東野圭吾さんが描き出したクスノキに、自分の念を預けたい、とさえ、思いました。
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