【平川新】『戦国日本と大航海時代 - 秀吉・家康・政宗の外交戦略』

戦国日本と大航海時代 - 秀吉・家康・政宗の外交戦略』読了。


日本の戦国時代は、大航海時代の真っ只中にあった、という論を、丁寧に、しかもわかりやすく解説しています。

これまで、似たような趣旨の書物を何度か手にとっていますが、『戦国日本と大航海時代 - 秀吉・家康・政宗の外交戦略』は、それらのなかでも秀逸の書だと思います。

また、思いもかけない指摘もあり、腑に落ちるとはこのことか、と思わされます。



豊臣秀吉の朝鮮出兵

豊臣秀吉の朝鮮出兵には、秀吉の晩年のことでもあり、頭おかしい説が昔からまかり通っていましたが、本書では、それらをきれいさっぱりと払拭してくれます。

100年以上もの長きにわたって、国中が戦争をしていた日本が、織田信長によって、かろうじて国家らしい状態になりかけ、豊臣秀吉がそれを完成させた結果として、朝鮮出兵が位置づけられます。

朝鮮出兵については、他の書物のなかでも、キリスト教の宣教師にそそのかされた説など、大航海時代を背景とした指摘があります。

しかし、ここでは、秀吉が対外的に出した文書と、日本に関係した宣教師たちが本国に送っている書簡などをつぶさに読み解き、豊臣秀吉が明確な意図をもって朝鮮出兵に及んだ事実が明らかにされています。

豊臣秀吉は、織田信長に対して、早くから宣教師の危険性を語ったこともあり、キリスト教の布教と植民地化(征服)がセットになっていることに気づいていた人物。

宣教師にそそのかされ朝鮮に出兵したというよりも、自分が掌握している戦力が、スペインやポルトガルよりも強大であることを認識していたために、明やインド、東南アジアまでも掌握しようとする意図があったのです。

宣教師たちも、当初は簡単に日本を征服できると考えていたようですが、間近にみる戦争や城郭に圧倒されるようになると、征服は困難かも、と思うようになっていきます。

武力で征服できないのであれば、民心から、ということで、一層の布教活動強化へと進むのですが、こちらは貿易とセットでなければ許可しないという姿勢が、秀吉から家康へと流れていくうちに固まり、最終的には商教分離へと方向付けられていきます。




スペインとポルトガルで世界を二分するトルデシリャス条約

世界史を学んだことがある人なら、一度は聞いたことがあるのがトルデシリャス条約でしょう。

スペインとポルトガルが、勝手に世界を二分した条約です。

この線引が日本でも有効とされ、はじめのうちはポルトガル系のイエズス会が、その後はスペイン系の教団が日本にやってくる原因となっています。

日本の大部分は、トルデシリャス条約ではポルトガルの権益エリアになるのですが、北の方はスペインの権益エリアとなるからです。

こうして、ポルトガルとスペインそれぞれの思惑が、戦国日本で渦巻いていたのです。

さらにややこしいのは、ポルトガルとスペインはカトリック教国であるのに対し、さらに遅れてやってきたオランダやイギリスはプロテスタント教国であることです。

大航海時代のころは、新旧キリスト教の争いも激化していたころなので、日本のなかでこれらの権益争いがさまざまな形で影響していたというのです。




皇帝(Emperor)と呼ばれた秀吉

本書のなかで、とくに注目すべきは、ヨーロッパ人がいつのまにか、日本を帝国(Empire)と呼び、豊臣秀吉を皇帝(Emperor)と尊称したことです。

実は、世界には皇帝と尊称される人や国家は多くありません。

古くは秦の始皇帝にはじまる中国、ヨーロッパではローマ帝国を受け継ぐ神聖ローマ帝国くらいしかありません。

皇帝とは、王の中の王(諸王の王)を意味しており、国王よりも上位の尊称です。

日本の国土は小さくとも、大名と呼ばれる大小様々な国王を束ね、号令できる豊臣秀吉を皇帝(Emperor)と呼ぶのは、間違っていません。

その尊称が、秀吉が自称したわけではなく、宣教師などのヨーロッパ人が使用したことに意味があります。

当時、世界最大の版図を持っていたスペインですら国王です。

ヨーロッパ人が日本を深く理解するうちに、日本を帝国(Empire)と呼ぶようになったというのは、とても興味深い指摘です。

以降、幕末にいたるまで、欧米から日本は帝国(Empire)であり、将軍は皇帝(Emperor)と尊称されています。

なぜ、このような視点が生まれてきたのかは、戦国時代の日本を生きたヨーロッパ人が大勢いたからこそ、といえます。




日本はなぜ植民地にならなかったのか

ひとことで書けば、武力行使をいとわない強大な軍事国家であったから、ということになります。

秀吉の朝鮮出兵では、30万の兵士が海を越えています。

当時、日本の窓口になっていたのは、スペインはフィリピンのマニラ、イギリスやオランダはそれぞれの東インド会社なので、アジアに出先機関があったことになります。

そして、彼らは彼らの論理で勝手に争い、東南アジアの海は、それぞれの国の海賊が跋扈する戦乱の海だったわけです。

そんななか、30万の兵士を渡海させることができる日本が、マニラを襲ったら、インドのゴアを襲ったら、と考えては戦々恐々としていたようです。

本国から遠く離れ、これまではせいぜい数千人ほどの兵で征服できていたのに、日本には戦争慣れした兵士が30万人もいる、と聞いたら、驚きよりも恐怖のほうが先に立つでしょう。

そんな軍事国家である日本と戦争したいと考える国はない、ゆえに植民地にならなかった、という指摘もまた、新鮮なものです。



統制・管理された貿易が「鎖国」

もちろん、軍事力だけでなく、そこには外交や政治にも長けた日本という国家があります。

これが明確になってくるのが、江戸時代です。

江戸初期までは、諸大名が勝手に交易を行い、勝手に外交交渉も行っていましたが、江戸幕府の体制が固まってくると、長崎の出島でのみ貿易と外交が行われる一元的な統制がはじまります。

これが「鎖国」です。

この頃までには、最後までしぶとく布教を要求してきたスペインやポルトガルの勢力は一掃され、イギリスとオランダのみと交易する事となっていきます。

さらに、江戸幕府は、長崎の出島からも参勤交代するように要求し、これに応じたのがオランダだけとなります。

国家のメンツからいえば、そんな要求は突っぱねることもできるのでしょうが、それよりも実をとったのがオランダなのかもしれません。

日本の戦国時代が、現代にまでつづく歴史につらなっていることが、生々しく伝わってきます。




ルイス・フロイス主役で大河ドラマが観たくなる

ヨーロッパの視点を知ると、大河ドラマで、ルイス・フロイス主役の作品があってもいいのでは、と思えてきます。

大河ドラマで人気の織田信長と豊臣秀吉は、ルイス・フロイスと関わりも深いので、視聴率的にも問題ないかも、とか思ってしまいます。

1563年(永禄6年)に日本にやってきたルイス・フロイスは、安土城で信長に拝謁したり、聚楽第で秀吉と会見したりと、経験も豊富です。

なにより、 1597年(慶長2年)に没するまで、日本で生きた人物なので、大河ドラマの主役も可能なのでは?と思ってしまいます。

実際のルイス・フロイスは、宣教師としての地位はあまり高くないらしく、文章能力と日本語能力の高さから、お偉い宣教師の通訳として働くことが多かったようですが・・・。

主役はだれでも良いので、この時代を地球儀的に描いたドラマがみたいです。


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