「信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変」読了。
昨年7月に上梓されて以来、8万部突破というベストセラーです。
あらためて、戦国時代、織田信長の人気を感じます。
著者は、織田信長をはじめ、戦国時代をテーマにした小説が多い、安部龍太郎さん。
テレビの歴史番組でも、ちょくちょく出演していらっしゃるので、ご存知のかたも多いと思います。
この本を読んで、改めて作家の安部龍太郎さんのプロフィールを確認しました。
安部龍太郎さんは、久留米高専を卒業された、理系男子でした。
だから、ここまでリサーチが細かいのか、と納得です。
一気に読める、歴史解説書として、とても示唆に富んだ名著です。
世界史を学んだ者として、日本史の近視眼的な史観は、ダイナミズムに欠けていて、本当につまらないものでしたが、最近は、史料オタクの磯田道史先生のおかげもあり、日本史がとてもおもしろくなってきています。
そのようなアプローチを作家の安部龍太郎さんもなさっていて、これまで大胆な推理をもとに、新しい戦国時代を描き出そうと様々な視点から、小説を書いてこられています。
「信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変」のなかでは、大航海時代における日本、キリシタンと戦国時代を切り口に、織田信長がなぜ本能寺の変で殺され、豊臣秀吉が政権を握ることができたのか、について詳しく説明しています。
普通に「京都 阿弥陀寺」で検索すると、山科のほうの阿弥陀寺が出てきてしまいますから、注意してくださいね。
この阿弥陀寺を開山した、清玉上人(せいぎょくしょうにん)が織田信長と親しかった縁で、ここに遺骨が運ばれ、墓がつくられました。
清玉上人は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅願僧であったことから、息子の信忠と家臣たちの墓も、ここにあります。
この阿弥陀寺に、信長の墓があることがほとんど知られていないのはなぜか?
それは、豊臣秀吉が、本能寺の変が起こることを知っていたにもかかわらず、信長を見捨てたからだと、著者は断定しています。
「信長燃ゆ」以降、明智光秀と近衛前久、足利義昭らの勢力が、信長を排除しようと動いていたことが、歴史的にも認知されるようになってきました。
織田信長は、天皇を手中にし、自分の都合の良いように利用していたという面があります。
しかし、利用する対価として、天皇の即位に必要な資金をだしたり、破れ果てた御所を建て替えたりもしています。
もともと神官の出身だといわれる織田家ですが、信長が天皇を崇敬していたかといえば、違うとしか言いようがありません。
信長は合理的な考えの持ち主ですし、商業的な成功なくして天下統一は果たせないということに気づいていた人物でもあります。
近衛前久には、そういう織田信長を排除しなければ、天皇家という存在はもちろん、公家社会も崩壊するという予感があったのでしょう。
明智光秀は、織田信長よりも6歳年長で、しかも足利義昭の家臣でもありました。
そして、足利義昭は近衛前久とは従兄弟関係で、反信長陣営となるのです。
明智光秀は、このような関係に利用され、最後は見殺しにされたのか、それとも殺されたことにして逃されたのかもしれないと、本書では指摘しています。
その根拠として、武家伝奏であった勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)が残した「天正十年夏記」に、明智光秀が山崎の合戦のあとに、勧修寺の在所(勧修寺家の所領)に立ち寄った可能性があることが示されているのです。
なんだか、明智光秀が気の毒になるような話です。
黒田官兵衛が指揮し、急ぎ秀吉軍が戻って、明智光秀を山崎の合戦で破るという奇跡のエピソードが中国大返しです。
これが可能となったのは、キリシタンであった黒田官兵衛を中心とするキリシタンネットワークがあったからだ、と指摘します。
その前に、なぜキリシタンは、織田信長に反旗を翻したのかが問題です。
実は、秀吉の中国征服(明国出兵)と無関係ではありません。
信長は、イエズス会のヴァリニャーノによって伝えられたスペインの要求(中国征服)を拒否し、キリシタンと手を切ったから、日本におけるキリシタンネットワークが反信長に回ったのです。
逆に、秀吉はイエズス会と中国征服を約束することで、漁夫の利を得たのです。
関白とは、天皇を補佐する役目であり、歴史的にも伝統的にも、藤原鎌足を祖とする五摂家に限られていた役目です。
その関白に、出自もよくわからない秀吉がなれるとは、常識的には考えられません。
しかし、秀吉は、近衛前久の猶子(養子)となることで、関白という地位を得ることになります。
著者も書いていますが、近衛前久が本能寺の変の黒幕で、その事実を知っていた豊臣秀吉が、脅しゆすって関白の地位を得たことは間違いがありません。
織田信長を本能寺で殺したことは、それだけ後ろ暗い事実だったのでしょう。
しかし、織田信長が示したような、他国の言いなりにはならないという気持ちには欠けていたのではないでしょうか。
徳川家康が、豊臣家を徹底的に潰したのは、利益のためには国家も売るという秀吉の態度が許せなかったからではないかと、本書を読んでいて感じました。
そして、豊臣政権下において、キリシタンネットワークは、ゴッドファーザーという名付け親を中心にして拡大していきます。
映画「ゴッドファーザー」にも描かれているように、名付け親の命令は絶対です。
つまり、キリシタンネットワークを破壊するためには、ゴッドファーザー以下、徹底的に組織を破壊していくしかありません。
人的組織を破壊するためには、その当事者である人間を抹殺するしかない。
そのため、キリシタンに対しては、火刑、斬首といった厳しい処分がたびたび見られるのです。
キリシタンネットワークに国の命運を預けるのかどうか、という背景を知ることなしに、日本のキリシタンの無残な歴史を読んでいてはいけないのだと感じます。
一般的には、浅井長政に裏切られたことがきっかけになって、数万単位の殲滅作戦を実行するようになった、と言われますが、浅井長政という個人の裏切りだけで、織田信長がそのような思いにいたるのか、わたしには疑問でした。
しかし、宗教をベースにした人的ネットワークは、その人たちを根絶やしにするしか排除できないことに気づいたから、という説明なら納得できるのです。
織田信長は、キリシタンと交流し、ゴッドファーザーという組織化の原理を知ることで、一向宗や比叡山を叩き潰すことを決意したのではないでしょうか。
織田信長は、もともとはお金持ちの家に生まれたお坊ちゃんですから、最初からそのようなことを考えていたわけではないと思います。
しかし、人の心や信念は容易に変えられない、ということに気づいたとき、殲滅し排除するという選択にいたったのでしょう。
そういう意味では、浅井長政の裏切りは、大きく影響しているのではないでしょうか。
大阪の陣で、大阪城に十万もの浪人が集まったのは、キリシタンネットワークがあったからだろうと指摘しています。
当時のキリシタンの数は、70万人ほどに膨れ上がり、そのなかで戦うことができる武士クラスの人間は10万から40万はいたのではないかと推測しています。
黒田官兵衛が、関ヶ原の戦いに乗じて、キリシタンの国をつくろうとしたというのも、実は本当にあったことなのではないか、というのが著者の意見です。
黒田家といえば、官兵衛と息子・長政の対立があります。
長政は、死に際した官兵衛が司祭に告解することを求めたにもかかわらず、これに応じませんでした。
そして、その後も黒田家にながれるキリシタンの血を消すために、叔父と従兄弟を殺した可能性があるのです。
日本という国を、どう動かしたいのか、という視点から見ると、黒田長政の行動も大きな意味があるように思います。
本書は、日本の歴史が、世界史とつながっていることが実感できる内容です。
ぜひ手にとって読んでください。
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【垣根 涼介】「光秀の定理」
【谷口 克広】「信長の天下所司代 - 筆頭吏僚村井貞勝」
【谷口 克広】「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」
昨年7月に上梓されて以来、8万部突破というベストセラーです。
あらためて、戦国時代、織田信長の人気を感じます。
信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変 (幻冬舎新書) | ||||
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著者は、織田信長をはじめ、戦国時代をテーマにした小説が多い、安部龍太郎さん。
テレビの歴史番組でも、ちょくちょく出演していらっしゃるので、ご存知のかたも多いと思います。
この本を読んで、改めて作家の安部龍太郎さんのプロフィールを確認しました。
安部龍太郎さんは、久留米高専を卒業された、理系男子でした。
だから、ここまでリサーチが細かいのか、と納得です。
一気に読める、歴史解説書として、とても示唆に富んだ名著です。
戦国時代は大航海時代
日本の戦国時代は、世界史における大航海時代であった、という視点から、さまざまな史料を読み直すところからはいっていて、非常に説得力があります。世界史を学んだ者として、日本史の近視眼的な史観は、ダイナミズムに欠けていて、本当につまらないものでしたが、最近は、史料オタクの磯田道史先生のおかげもあり、日本史がとてもおもしろくなってきています。
そのようなアプローチを作家の安部龍太郎さんもなさっていて、これまで大胆な推理をもとに、新しい戦国時代を描き出そうと様々な視点から、小説を書いてこられています。
「信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変」のなかでは、大航海時代における日本、キリシタンと戦国時代を切り口に、織田信長がなぜ本能寺の変で殺され、豊臣秀吉が政権を握ることができたのか、について詳しく説明しています。
織田信長の墓がある京都の阿弥陀寺
通説では、織田信長の遺骨は見つからなかったことになっていますが、京都の阿弥陀寺には、織田信長の遺骨を納めた墓があるのだそうです。普通に「京都 阿弥陀寺」で検索すると、山科のほうの阿弥陀寺が出てきてしまいますから、注意してくださいね。
この阿弥陀寺を開山した、清玉上人(せいぎょくしょうにん)が織田信長と親しかった縁で、ここに遺骨が運ばれ、墓がつくられました。
清玉上人は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅願僧であったことから、息子の信忠と家臣たちの墓も、ここにあります。
この阿弥陀寺に、信長の墓があることがほとんど知られていないのはなぜか?
それは、豊臣秀吉が、本能寺の変が起こることを知っていたにもかかわらず、信長を見捨てたからだと、著者は断定しています。
近衛前久(このえさきひさ)が起案、明智光秀が実行
安部龍太郎さんは、近衛前久という公家と本能寺の変の関係を最初にひもといた作家です。信長燃ゆ(下) (新潮文庫) | ||||
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「信長燃ゆ」以降、明智光秀と近衛前久、足利義昭らの勢力が、信長を排除しようと動いていたことが、歴史的にも認知されるようになってきました。
織田信長は、天皇を手中にし、自分の都合の良いように利用していたという面があります。
しかし、利用する対価として、天皇の即位に必要な資金をだしたり、破れ果てた御所を建て替えたりもしています。
もともと神官の出身だといわれる織田家ですが、信長が天皇を崇敬していたかといえば、違うとしか言いようがありません。
信長は合理的な考えの持ち主ですし、商業的な成功なくして天下統一は果たせないということに気づいていた人物でもあります。
近衛前久には、そういう織田信長を排除しなければ、天皇家という存在はもちろん、公家社会も崩壊するという予感があったのでしょう。
明智光秀は、織田信長よりも6歳年長で、しかも足利義昭の家臣でもありました。
そして、足利義昭は近衛前久とは従兄弟関係で、反信長陣営となるのです。
明智光秀は、このような関係に利用され、最後は見殺しにされたのか、それとも殺されたことにして逃されたのかもしれないと、本書では指摘しています。
その根拠として、武家伝奏であった勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)が残した「天正十年夏記」に、明智光秀が山崎の合戦のあとに、勧修寺の在所(勧修寺家の所領)に立ち寄った可能性があることが示されているのです。
なんだか、明智光秀が気の毒になるような話です。
キリシタンネットワークが秀吉をサポート
本能寺の変とセットで語られるのが、豊臣秀吉の中国大返しです。黒田官兵衛が指揮し、急ぎ秀吉軍が戻って、明智光秀を山崎の合戦で破るという奇跡のエピソードが中国大返しです。
これが可能となったのは、キリシタンであった黒田官兵衛を中心とするキリシタンネットワークがあったからだ、と指摘します。
その前に、なぜキリシタンは、織田信長に反旗を翻したのかが問題です。
実は、秀吉の中国征服(明国出兵)と無関係ではありません。
信長は、イエズス会のヴァリニャーノによって伝えられたスペインの要求(中国征服)を拒否し、キリシタンと手を切ったから、日本におけるキリシタンネットワークが反信長に回ったのです。
逆に、秀吉はイエズス会と中国征服を約束することで、漁夫の利を得たのです。
なぜ秀吉は関白になれたのか?
いかに時の権力者であろうと、秀吉のような、農民出身の武将が関白になるのは、非常にむずかしいことだと思われます。関白とは、天皇を補佐する役目であり、歴史的にも伝統的にも、藤原鎌足を祖とする五摂家に限られていた役目です。
その関白に、出自もよくわからない秀吉がなれるとは、常識的には考えられません。
しかし、秀吉は、近衛前久の猶子(養子)となることで、関白という地位を得ることになります。
著者も書いていますが、近衛前久が本能寺の変の黒幕で、その事実を知っていた豊臣秀吉が、脅しゆすって関白の地位を得たことは間違いがありません。
織田信長を本能寺で殺したことは、それだけ後ろ暗い事実だったのでしょう。
戦国時代のキリシタンネットワーク
豊臣家は、こうした背景もあり、キリシタンに対して寛容な政策を取り続けます。しかし、織田信長が示したような、他国の言いなりにはならないという気持ちには欠けていたのではないでしょうか。
徳川家康が、豊臣家を徹底的に潰したのは、利益のためには国家も売るという秀吉の態度が許せなかったからではないかと、本書を読んでいて感じました。
そして、豊臣政権下において、キリシタンネットワークは、ゴッドファーザーという名付け親を中心にして拡大していきます。
映画「ゴッドファーザー」にも描かれているように、名付け親の命令は絶対です。
つまり、キリシタンネットワークを破壊するためには、ゴッドファーザー以下、徹底的に組織を破壊していくしかありません。
人的組織を破壊するためには、その当事者である人間を抹殺するしかない。
そのため、キリシタンに対しては、火刑、斬首といった厳しい処分がたびたび見られるのです。
キリシタンネットワークに国の命運を預けるのかどうか、という背景を知ることなしに、日本のキリシタンの無残な歴史を読んでいてはいけないのだと感じます。
織田信長の残虐性も人的ネットワークを抹殺するため
織田信長が、比叡山を焼き討ちし、反抗する相手を徹底的に殲滅していく作戦を取るようになった背景にも、人的ネットワークを排除するためには、人間を抹殺するしかないという結論を得たからだと考えられます。一般的には、浅井長政に裏切られたことがきっかけになって、数万単位の殲滅作戦を実行するようになった、と言われますが、浅井長政という個人の裏切りだけで、織田信長がそのような思いにいたるのか、わたしには疑問でした。
足半と本能寺〈上巻〉 | ||||
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しかし、宗教をベースにした人的ネットワークは、その人たちを根絶やしにするしか排除できないことに気づいたから、という説明なら納得できるのです。
織田信長は、キリシタンと交流し、ゴッドファーザーという組織化の原理を知ることで、一向宗や比叡山を叩き潰すことを決意したのではないでしょうか。
織田信長は、もともとはお金持ちの家に生まれたお坊ちゃんですから、最初からそのようなことを考えていたわけではないと思います。
しかし、人の心や信念は容易に変えられない、ということに気づいたとき、殲滅し排除するという選択にいたったのでしょう。
そういう意味では、浅井長政の裏切りは、大きく影響しているのではないでしょうか。
キリシタンから見た戦国時代
「信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変」の後半は、キリシタンが、戦国時代にどのような勢力となっていたのか、を解き明かしています。大阪の陣で、大阪城に十万もの浪人が集まったのは、キリシタンネットワークがあったからだろうと指摘しています。
当時のキリシタンの数は、70万人ほどに膨れ上がり、そのなかで戦うことができる武士クラスの人間は10万から40万はいたのではないかと推測しています。
黒田官兵衛が、関ヶ原の戦いに乗じて、キリシタンの国をつくろうとしたというのも、実は本当にあったことなのではないか、というのが著者の意見です。
黒田家といえば、官兵衛と息子・長政の対立があります。
長政は、死に際した官兵衛が司祭に告解することを求めたにもかかわらず、これに応じませんでした。
そして、その後も黒田家にながれるキリシタンの血を消すために、叔父と従兄弟を殺した可能性があるのです。
日本という国を、どう動かしたいのか、という視点から見ると、黒田長政の行動も大きな意味があるように思います。
本書は、日本の歴史が、世界史とつながっていることが実感できる内容です。
ぜひ手にとって読んでください。
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