「信長の天下所司代 - 筆頭吏僚村井貞勝」読了。
戦国史家・谷口克広さんの2009年刊行の書です。
幕末まで続くことになる「京都所司代」の実質的な初代であり、織田信長の吏僚(事務方)のトップ・村井貞勝に焦点をあててまとめられたものです。
岐阜城 |
織田信長の家臣団については、「織田信長の家臣団」という研究書もあり、そのなかのほんの一部に吏僚のことが書かれています。
筆頭吏僚であった村井貞勝を取り上げたもので、ここまでの良書はほかには見当たりません。
村井貞勝とは?
織田信長の事務方のトップ・村井貞勝は、信長より年長の人物です。おそらく、父・信秀の時代からの吏僚ではなかったか、という推測が成り立つようです。
あまり知られていませんが、本能寺の変の際に、京都にいた村井貞勝が信忠に異変を知らせ、信忠とともに命を落とします。
このとき70歳近い年齢でした。
村井貞勝は優秀な事務方として、信長に優遇されます。
たとえば、安土城が完成したときに、家臣のなかでも筆頭家老の林秀貞と村井貞勝のふたりが、信長の案内で安土城のなかに入っています。
織田信長は戦に明け暮れた人生でしたが、拡大する領土・版図の基盤を固めるためには、事務方が重要であることをよく理解していた人物だったようです。
林秀貞は武将として戦場にも出ていましたが、むしろ政治家としての手腕が買われていた人物です。
同じように、信長は領地運営ができる人物を高く評価する傾向があります。
馬廻のような親衛隊を形成することができた信長の経済的な背景が、多くの吏僚を抱えることができたことにも通じているのでしょう。
信長の天下所司代 - 筆頭吏僚村井貞勝 (中公新書) | ||||
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村井貞勝の行動がわかる公家の日記
谷口克広さんの研究は、良質な史料を読み解き、それらを体系的に分類・整理するところからはじまるようです。村井貞勝の研究は、公家たちの日記がもとになっています。
当時の公家は日記をつけることがお好きだったようで、多くの公家の日記が史料として登場します。
それらの日記から、村井貞勝に関連する部分を抜き出し、時系列に並べたものを「日次記(ひなみき)」として年ごとに列挙されています。
もちろん、「日次記(ひなみき)」に信長公記は欠かせませんが。
ただし、日記の多くが散逸しているため、村井貞勝の本当の行動はわかりません。
もっとも多く現代に伝わっているのが吉田兼見の「兼見卿記」なので、吉田兼見と親密なように思えますが、ここには注意が必要です。
天下所司代とは?
所司代という役職は、もともと室町時代のものだったようです。応仁の乱で実質的には消滅した所司代を、100年ぶりに復活させたのが信長です。
このとき、村井貞勝に信長が命じたのは「天下諸色」であり、天下とは京都のことです。
天皇との関係から、京都の治安まで、一切合切を納める役割が天下所司代というものでした。
信長は、将軍・足利義昭の権威とともに、正親町天皇の権威も利用したとよく言われますが、そう簡単に権威を利用することができたわけではありません。
豊富な財力をつかってまず邸宅をつくったり、彼らの権威を傷つける者たちを排除したりしていきます。
天下所司代の村井貞勝は、京都において、普請奉行のような役割も務めており、特に天皇の在所である御所の修繕や、戦乱で地に落ちた天皇家の権威を守るような行動をおこします。
戦国時代の天皇の窮状
応仁の乱からはじまる戦国時代、天皇は、金銭的にも物質的にも困窮時代を迎えます。後土御門天皇(在位:1464~1500)
葬儀費用がないため、遺体が1カ月以上も御所に置かれています。後柏原天皇(在位:1500~1526)
在位22年目に即位式を行いました。世間からは「やせ公卿の麦飯だにもくいかねて即位だてこそ無用なりけり」と揶揄されます。
天皇の権威が地に落ちていることがわかります。
後奈良天皇(在位:1526~1557)
在位10年目で即位式を行いました。官位や栄典を売ることが、このころからはじまります。
正親町天皇(在位:1557~1586)
即位式は在位3年後に行いました。信長の助力を頼みにして、天皇家の再興へと導きます。
後土御門天皇のときに朝廷儀式はほとんど途絶えます。
なかでも、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭である「大嘗祭(だいじょうさい)」は、東山天皇(在位:1687~1709)のときに再興されるまで221年間も途絶えていました。
困窮する天皇家は庶民からも相手にされず、御所に石をなげたり、破れた塀から自由に出入りするなどの行為が行われており、これらを改善・取り締まる役割も、村井貞勝に与えられていました。
朝廷と幕府の連絡役
信長はとても合理的な人物だと知られていますが、それがもっとも現れているのが、武家伝奏です。当時の朝廷は指示命令系統が不明瞭で、本来は天皇が出す綸旨を、公家が勝手に出すような事件がおこっていました。
そこで信長は、村井貞勝に年齢的にも近い5人の伝奏役を任命し、朝廷と信長との連絡役にします。
当然ながら、武家伝奏の5人が岐阜に毎回やってくることはなく、天下所司代である村井貞勝が彼らに対応します。
朝廷と幕府の連絡役でもあった村井貞勝は、その後、年々公家や天皇家との親密度を深めていくのです。
村井貞勝という能吏の活躍をみていくと、信長がとても繊細に朝廷との関係を築いていったことがよくわかります。
また、事務方なしに、朝廷と渡り合っていくことは不可能であるということも理解していた信長の識見にも感心させられます。
織田信長家臣人名辞典 | ||||
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