「織田信長の家臣団―派閥と人間関係」読了。
戦国時代の呪術とかまじない関係の本の読んでいるうちに、ここに到達しました。
岐阜城 |
織田信長に関する書籍は数あれど、家臣団について買いた本があるとは思っていませんでした。
そして、こんなに人気があるとも!
なんとアマゾンで4ケタの順位です。
著者は、戦国時代の歴史研究家です。
内容は、古文書を丹念に読んで調べた学術研究のジャンルです。
こういう歴史の本の場合、順位は万の単位、すなわち5ケタなんですが、4ケタというのはすごいことだと思います。
織田信長の家臣団―派閥と人間関係 (中公新書) 和田 裕弘 中央公論新社 2017-02-19 売り上げランキング : 5955
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直臣と家臣
歴史ドラマなどで見ていて、普段はまったく気にすることがないのですが、臣下には直臣と家臣がありました。直臣とは信長の本当の家臣で、信長が直接指揮をとることができる人々。
家臣とは、信長に従う武士集団の長、と言えます。
信長が命令しますが、それを実行に移す詳細については、武士団の長が差配します。
そういう違いが明確にあると知ってドラマを見たりすると、ちょっと違って見えてきます。
信長が手勢として率いていたのは700~800で、尾張領内の戦闘には、この規模で出陣し、信長が直接指揮を執りました。
零細企業の3代目
信長は、守護の斯波氏、守護代の織田大和守家・織田伊勢守家のさらに下の奉行の家柄の出身です。勢力を失っているとはいえ主家・斯波家は親会社の親会社みたいな存在です。
織田家のなかでも守護代の織田家と奉行の織田家では、本家と分家、企業に置き換えれば、親戚同士で会社経営をしているような状態で、協力するどころか常に紛争状態、というお家柄です。
奉行の織田弾正忠家の3代目が信長にあたります。
この零細企業の3代目の信長が、天下統一してしまうわけですから、ある意味、超がつく出世物語です。
とはいえ、武家である織田家ですから、零細企業とはいえ父の代から引き継いだ家老や守役もいました。
林秀貞や平手政秀などが家老としては有名ですが、林秀貞は信長から後に追放され、平手政秀は信長を諫めるために自害したということで有名です。
そして、家老や織田家の一門衆が、度重なる謀反を起こして信長を苦しめます。
子どものころから優秀で、誰もが一目置くような人物ではなかったために、零細企業の3代目・信長は軽んじられたということかもしれません。
斎藤道三の後ろ盾
ドラマでもよく描かれる、斎藤道三との会見は、実は信長の足元が揺らいでいる時期に実現しました。攻守同盟を築き、道三を後ろ盾として実力を伸ばしていきます。
16歳で斎藤道三の娘・濃姫と婚姻。
18歳で家督相続。
20歳で斎藤道三と会見。
22歳で清州城を居城とする。
という具合で、道山の後ろ盾がなければ、基礎を確立することも難しかったかもしれません。
おまけに、これまたドラマではおなじみの、弟・信勝(信行)の謀反は信長23歳のとき。
信勝(信行)を殺害するのは24歳のときなのです。
まるで順番は逆ですね。
桶狭間には小姓をつれて出陣
その後、岩倉城の戦で織田信賢を攻め追放し、尾張国をほぼ統一したのが26歳。その翌年に今川義元を桶狭間で討ち取ります。
桶狭間の戦いは、信長の人生を決めたといってもよい出来事ですが、このとき信長は、籠城を主張する家臣たちをおいて、小姓衆5人と出陣しています。
このとき付き従った小姓は、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、加藤弥三郎の5人。
小姓といっても信長と年齢が近い近習です。
こののち信長軍は総勢2千名を超える軍勢となりましたが、今川義元の軍勢の10分の1程度でした。
しかし、桶狭間の戦いで勝ったことにより、尾張における信長の地位が確立しました。
尾張出身者と一門衆で固めた織田軍団
織田信長の功績のひとつに、兵農分離を行ったことがあげられます。それまでは、農民が兵になることが当たり前だったので、農閑期に戦闘が行われたわけですが、信長は職業軍人の集団として軍団を作り上げていきます。
その中心となったのが、織田弾正忠家に父祖の代から使えていた尾張出身の家臣と、信長により統一された織田家の出身者(一門衆)です。
このなかでも有名なのが、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益らでしょう。
これに羽柴秀吉などが加わってきますが、信長が上洛するころまでは、信頼のおける人たちが軍団の中心であり、後に軍団に加わる美濃衆などには尾張衆や一門衆が目付としてつけられていたとあります。
そののち、荒木村重、松永久秀、明智光秀などを登用しますが、彼ら3人は信長を裏切っています。
支配地域の拡大と軍団の拡張によって、信頼できる筋から登用しなくなった(能力主義に変更した)ことにより、ふただび裏切りや謀反が起こるようになったともいえます。
長篠の戦い後の有力家臣
天正3年、信長42歳。長篠の戦いで武田勝頼に勝ち、嫡男・信忠に家督を譲った年です。
盤石の基盤を形成し、殿様から上様に変わったころの有力家臣団は、次の通りでした。
トップクラス8人
- 明智光秀
- 丹羽長秀
- 梁田広正
- 塙直政
- 羽柴秀吉
- 滝川一益
- 佐久間信盛
- 柴田勝家
信忠付き(信忠時代に出世が約束されていた)
- 河尻秀隆
- 浅井信広
- 蜂屋頼隆
- 池田恒興
ワンランク下(柴田勝家の与力)
- 金森長近
- 原政茂
- 佐々成正
- 前田利家
- 不破光治
信忠に家督を譲ってからは、安土山城の建設に着手。
このころにはトップクラスの武人による軍団をもとに方面軍が形成されてきており、信長が直接に指揮を執ることが少なくなっていきます。
地縁・血縁・婚姻と義兄弟
現代の政治家にも通じることですが、軍団の結束力や突破力は、地縁・血縁と婚姻によって形成されていました。確実な人的ネットワークを築くことによって、強大になった織田軍団のなかで地歩を固める必要性も強まります。
信長の娘と結婚する、息子を養子にする、または織田軍団の出世頭と義兄弟になるなど、さまざまな方法で、自らの地位を固め、ミスをしても守ってもらえるような人間関係をそれぞれに形成していきます。
そうすることで、実際に信長から許されることもあったようです。
近すぎて抗争になることもあれば、近いからこそ地位や財産を守ろうとする求心力も働くことが、「織田信長の家臣団―派閥と人間関係」にはくわしく描かれています。
優秀な吏僚の存在
信長の政治手腕としては、武力の評価が高いため、見落としがちになるのが優秀な役人(吏僚)です。のちに京都所司代として活躍し、フロイスが尊敬したといわれる村井貞勝は、信長を支える優秀な官僚として長年にわたって使えます。
織田家には父の代からつかえていたものとみられ、本能寺に変の際には、信忠とともに討死しています。
秀吉の時代になって官僚と軍人の対立が目立ちますが、信長時代は官僚は裏方に徹していたようで、軍人たちとのもめごとはなかったようです。
とはいえ、村井貞勝なくして安土山城や二条城の建設はなく、天皇家や公家との仲をうまく取り持ったのも村井でした。
この人物についてはもっと深く知りたいところです。
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