【門田 隆将】「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」


死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」読了。

タイトルだけでわかると思いますが、2011年3月11日に発生した東日本大震災による津波で全電源を喪失した福島第一原発を守った現場の人々のインタビューから、事実を描き出したノンフィクションです。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発 (角川文庫)

門田 隆将 KADOKAWA 2016-10-25
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by ヨメレバ

2020年公開予定で映画化されると知ったので、その前に読んでおこうと手に取りました。

原発の話ですから、科学的な知識のない者にとって、チンプンカンプンなフレーズがたくさん出てくるのではないかという危惧が、まったくの杞憂に終わりました。

たくさんの関係者から、丹念にインタビューしたためでしょうか、とにかく読みやすい。

そして、淡々と時系列に沿って進行する人間ドラマは、涙があふれる場面も多々あります。





2011年3月11日にあなたは何をしてました?

わたしは六本木のオフィスで仕事をしていました。

「あ、地震だ」

と揺れを感じた瞬間から少しして、大きな揺れがやってきました。

東京は震度5弱以上。

わたしはスマホで動画を撮影する余裕がありました。

天井から何かが落ちてくるわけではありませんでしたが、たくさんの本や資料が崩れてしまいました。

【門田 隆将】「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」
床に物が散乱した地震直後

すぐに携帯電話(ガラケー)でワンセグを受信し、NHKの映像を映し出しました。

まだ東北地方の被災状況が詳しくわからなかったため、東京湾に近い石油タンクが炎上している様子が映し出されていました。

そして、しばらくすると、津波情報が流れ始めました。

スマトラ沖地震以降、何度か津波情報が流れていましたが、いつも数十センチという単位でした。

しかし、その日は違っていました。

今でもよく覚えています。

津波の単位がメートルだったのです。

このときはじめて、大きな地震が、それも巨大地震が東北地方を襲ったことが、実感できたのでした。


オフィスビルから避難、帰宅、そしてダンスへ

オフィスビルから退去勧告を受けたころには、携帯電話は通じなくなっていました。

当時、中国に出張していた同僚に連絡すると電話は通じたのですが、国内はどんどん繋がらなくなっていきます。

このときは、Twitterくらいしか、連絡手段がなくなっていたのです。

その後、仕事は止めて、それぞれ帰宅。

わたしは歩いて帰れる距離だったので、歩いて自宅に帰りました。

帰宅して鍵をあけると、玄関先にはあらゆるものが落ちていました。

我が家は14階なので、かなり揺れたようです。

たまたま来ていた大学生の甥が奥にいて、荷物が飛び交う中、パソコンは死守してくれていました。

「床に落ちたものは捨てる」

と決めて、わたしは玄関から、甥はキッチンのほうから、床に落ちたものをすべてゴミ袋にいれていきました。

この作業に1時間ほどかかったでしょうか。

床の散乱物をかたづけ、床掃除をすると、すっかり暗くなっていました。

東日本大震災があった日は金曜日。

ダンスのレッスンの日でしたから、甥にはレッスンが終わった頃、出てくるように指示して、わたしは予定通り、ダンスのレッスンを受けました。

ダンス教室に行くには、まず階段で降りなければなりません。

地震直後にエレベーターが動かなくなってしまったからです。

そして、通りにでると、人ひとヒトが歩いているのです。

車は渋滞、人が道に溢れかえっていました。

横浜方面に帰宅する人々の群れが、歩道も道路もなく、列をなしていました。

とんでもないことが起こっていることは、一目瞭然でしたが、予定通りダンスのレッスンを受け、その日は近くの居酒屋で甥と食事したのです。

なにしろ自宅ではガスも使えませんでしたから。

食事中も、携帯電話でワンセグ放送を見ていると、くりかえし津波の映像が流れています。

それでも、このときはまだ、福島第一原発が深刻な状況になっているとは、知らなかったのです。


翌朝になってわかった福島第一原発の事故

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」を読むと、大津波が福島第一原発を襲った直後から、現場の人々が、原発の暴走を止めようと決死の覚悟で取り組んでいたことが、緊迫感とともに伝わってきます。

福島第一原発が、全電源を喪失し、人手ですべての作業を行わなければならないというとき、わたしは居酒屋で食事をしていたことになります。

翌日には、1号機が水素爆発。

どこにも出かけることができないので、部屋でテレビを見ているのですが、津波につづいて原発事故関連のニュース量がどんどん増えていきました。

上空から映し出された福島第一原発をみて、わたしは思い出していました。

子どもの頃に、ここに行ったことがある、と。

後日、両親に確認したところ、確かに連れて行ったことがあると言われました。

そう、わたしは福島県出身です。

浜通りではなく、中通りですが、大地が大きく割れ、道が凸凹になった地元を見ています。

【門田 隆将】「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」
GWに実家に戻って撮影

そして、すっかり忘れていた子どもの頃の記憶が、事故関連の映像を見ていて思い出すのですから、人間の記憶には恐れ入ります。

今読んでも菅直人首相の過干渉ぶりがわかる

福島第一原発の事故から少しして、菅直人首相(当時)が、事故後の復旧に命がけで対処している現場に向かいます。

ニュースで見たときに

「役に立たない人が行っても・・・」

と感じましたが、まさにそんなことが、福島第一原発の現場では起こっていたのでした。

すでに放射能の線量がかなり高くなっている現場にヘリで乗り込み、いきなり写真撮影をしたかと思うと、免震棟入り口での検査係を罵倒し、ズカズカと入り込んだ様子が本書には描かれています。

ああ、やっぱり、奥さんが妊娠しているときに、学祭で焼きそば焼いてた人は違うわ、と読んでいて思いました。

懸命になって、命がけで働いている人たちが、モラルハザードをおこしてもおかしくないような発言を、菅直人という人は、あちこちで発しているのです。

これはもう、菅直人首相(当時)を、誰がどのように演ずるのか、映画が楽しみになってきます。

物語の敵役として、かなり重要なキャラクターです。

被災者でもある地元民が決死の覚悟でまもった福島第一原発

原発を福島に造ろうとした東電の社長は、福島県梁川町出身の木川田一隆社長(当時)でした。

1960年代、福島県浜通りでは、冬の間は出稼ぎに行かないと生計が成り立たないような状態でした。

原発ができたことで、地元で働く場所ができ、生活は変化し、豊かになっていきました。

福島第一原発の事故は、何十年も続く、そんな地元の願いが裏切られた瞬間でもありました。

現在でも、地元に働く場所を確保しようと、地方自治体は必死です。

それが原発だったことが、福島県の悲劇だったのです。

しかし、何十年もそこで働き、原発を運用してきた現場の人たちは、事故を起こしてしまった責任感と、被害を拡大してはならないという使命感によって、何日間も不眠不休で働いていました。

自宅が津波で流され、家族はバラバラに避難して、自分自身も被災者である人たちが、原発の暴走を止めようとして、命をかけていたのです。

地元愛と仕事に対する誇りが、自分自身を犠牲にしてでも、という行為へと駆り立てます。

こういう気持ちになりやすいのは、災害大国に生まれた日本人に特有のものだそうです。

⇒ 【中野 信子】「シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感」


現場の人々の真実を描いた良書

わたしは、福島第一原発の事故に興味はありましたが、手にとって読むにはハードルが高いと感じていました。

しかし、「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」は、語り口がやわらかで、一気に読めるほどのドキュメンタリーです。

まるで、すでに十分に知られた史実を物語にしたかのように、スムーズに頭に入ってきます。

福島第一原発が暴走しなかったのは、現場で働いていた人々がいたからであることを、わたしは本書を読んで初めて知りました。

福島第一原発の事故発生直後の、冷静な判断と適切な処置がなければ、日本国民の半数が住むエリアが半永久的に立ち入り禁止区域になった可能性が高いのです。

そこには東京もふくまれています。

本書は、福島県民はもとより、中学の教科書に採用していただいて、国民の多くが読むべき内容だと思いました。


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