「検察側の罪人」読了。
映画「検察側の罪人」を観て、原作のほうも読まないと、と思って、さっそく購入しました。
なぜ原作を読もうと思ったか、といいますと、映画のほうはエピソードとエピソードの間に突然の溝があったためです。
推測で理解できるのですが、ちゃんと読んでおこうかな、と思わせました。
そういう意味で、映画は原作本の販促キャンペーンに成功していると思います。
印象に残る映画だけれど原作は?
映画を観ての感想は、監督&脚本の原田眞人氏の強い思いが込められている、です。原作にはない、インパール作戦(太平洋戦争最大の失敗)で数万の兵士が亡くなった史実を心理描写に使うとか、キムタク演じる検事・最上が若き検事・沖野(二宮和也)に、直接指示を与えるなど、映画上の演出がなされています。
また、最上の行動を裏付けるためのエピソードや、犯人・松倉を強烈なキャラクターに設定したことなど、映画的には必要かもね、と原作のほうを読んで納得しました。
検察側の罪人 上 (文春文庫) | ||||
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淡々と犯罪に手を染めるエリート検事・最上
映画のほうでは、最上が犯罪に手を染める背景が丹念に描かれているので、わかりやすいのですが、原作の小説のほうでは、最上の心理がそこまで描かれていません。割と淡々と進行していきます。
むしろ、若手検事の沖野のほうの心理描写が描かれていて、映画のほうが最上、小説は沖野という印象です。
映画では、最上が、犯罪ブローカーの諏訪部に依頼するシーンがありますが、原作では拳銃を買うくらいで、原作にはもっと深いことが書かれているのかも、と期待して読むと裏切られます。
吉高由里子の潜入の設定は必要ですか?
沖野の事務官・橘沙穂は吉高由里子さんが演じていますが、映画では、検察の裏側の暴露本を書くために潜入しているという設定になっています。これも原作にはない設定なのですが、映画だけのエピソードのために必要だったんでしょう。
映画の中で、沖野と橘が、ホンボシである弓岡と接触しようとしている最上を追いかけるというシーンがあります。
これを入れると、ストーリーの展開上、あとで最上が橘の信頼性を貶める必要があったので、暴露本作者という設定が必要だったんですね。
原作は、最初に書いた通り、淡々と進む物語なので、曲者・橘はまさかの設定です。
原作のアイデアと、原作のなかで登場人物たちが発する言葉は、映画のなかで生かされているのですが、キャラクター設定が濃いのです。
沖野がもっとも原作に近いのではないでしょうか。
検察側の罪人 下 (文春文庫) | ||||
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原作ではエリート検事・最上のその後も
映画では、これまた余計なエピソードなのですが、政治家・高島の政治資金が日本を戦争に導いているという告発をしようと、最上が沖野を誘い、沖野がこれを断る場面で終わります。監督&脚本の原田眞人氏は、反戦主義というか、過去の戦争の被害をなんとか広く知らしめたいという意思が強いのだと思いますが、インパール作戦とか、政治家が日本を戦争に引っ張っているとか、本当に必要なのかな、という疑問が残りました。
見方をかえると、映画は反戦映画のエッセンスが強い仕上がりです。
原作では、重大犯罪の時効が消滅したことによって、検事が、なぜ時(法)で時効の有無が決められてしまうのか、思い悩みます。
この矛盾というか、納得いかない気持ちが、検事を犯罪へと一歩踏み出させてしまいます。
文章では心理描写でなんとかなりますが、映画的には、そんな心理は表現が難しいのかもしれませんね。
原作では、最上が殺してしまった弓岡の死体が発見され、最上は逮捕されます。
そこに、沖野がやってきて、最上の弁護人になりたいと申し出ますが、最上はこれを断わります。
最後まで、もやもやっとしたものが残る小説です。
アガサ・クリスティの「検察側の証人」
原作小説の「検察側の罪人」というタイトルは、アガサ・クリスティの「検察側の証人 」を思い出させます。検察側の証人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫) | ||||
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クリスティのほうの原題が「The Witness for the Prosecution」であり、「検察側の罪人」のほうの英題が「Killing for the Prosecution(起訴するための殺人)」であることからも、クリスティのタイトルをいただいたことがわかります。
クリスティの「検察側の証人 」は、クリスティ自身が戯曲化し、のちに映画化された法廷劇です。
ストーリーは違いますが、知ってる人は知っている、という仕掛けは、ミステリ小説によくみられますね。
オタク心が刺激されます。
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