【斎藤 英喜】「陰陽師たちの日本史」





斎藤英喜先生の「陰陽師たちの日本史」読了。

先日読了した小和田哲男先生の「呪術と占星の戦国史」に触発されて、陰陽師の歴史を勉強したくなって購入しました。

清明神社
京都の清明神社には毎年、立春後にお参りしていたこともあって、陰陽師・安倍清明には興味があり、映画やコミックなどはもちろん、さまざまな書籍にも目を通していました。

が、しかし、小和田哲男先生の「呪術と占星の戦国史」を読んで、名だたる戦国武将が密教僧に祈祷させていたり、呪符や霊符をつかったり、はたまた扇の使い方で凶を吉に変えるなどして戦いに臨んでいたことを知り、がぜん興味をもったのが戦国時代の陰陽師でした。





陰陽道は日本独自の用語

陰陽師たちの日本史」には、最新の陰陽道と陰陽師についての研究成果が紹介されています。

これによると、陰陽道という言葉は、平安時代中期・十世紀以降の日本の文献にしか見られないのだそうです。

最近では、中国の陰陽・五行説、天文説、占術、密教、道教、神祇信仰などを取り混ぜながら、日本独自につくり出された思想、祭祀法、呪術であることがわかっており、陰陽道にしか存在しないのです。

最初の数ページを読んだだけで、けっこうショック!

原典の良いところだけを取り入れながら独自の進化をさせるという、日本人の得意技が陰陽道においても発揮されていたわけです。


陰陽師(おんみょうじ)とは何か?

陰陽道の基礎となる「陰陽寮」という役所を設けた天武天皇は、同時に「占星台」も設けます。

天武天皇は、天文・遁甲をよくした、つまり自分で運気を占うことができた天皇で、壬申の乱のときに式盤をつかって占いをしたと伝わっています。

その天武天皇が設けた「陰陽寮」には、陰陽博士、暦博士、天文博士、漏刻博士(時間を管理する)という4人の博士の下にそれぞれの学生が10人ずついて、博士は学生を指導していました。

ここで注意しなければならないのは、天文の動きを観察して、通常とは異なる星の動きがあった場合には、天皇または国家に異変があるとする思想に基づいて、陰陽寮が設置されたことです。

占いの多くは、天文観察によって成立していますが、陰陽寮もまさにベースはここにあります。

また天文観察と暦、時間は不可分の関係と言ってよく、国家体制の基本をなすものでした。

陰陽寮と聞くと、呪術的な役所と考えてしまいがちですが、最新科学的な存在だったわけです。

そのなかに、職掌として陰陽師がいて、式盤を使った占いを専門としていました。

占いといっても天皇と国家に関するもので、宮殿や寺院の建立のさいには土地の良し悪しも占っていました。

そして陰陽寮の役割のなかで最大のものが、「天人相関説」に基づいた、天から下されたメッセージを解読して天皇に奏上(天文密奏)することです。

陰陽寮の役人たちは、トップシークレットを扱う国家占星術師であったわけです。

陰陽師界のスター・安倍清明は天文博士として、天文密奏を3回行ったと残されています。


陰陽師(おんみょうじ)と陰陽法師(おんみょうほっし)

はじまりは国家占星術師であった陰陽師ですが、平安後期には、貴族など個人を占う時代へ進みます。

陰陽寮を辞めてからの安倍清明が、藤原氏を顧客に活躍した時代です。

このころになると、在野にありながら占いや呪術を請け負う僧体の、陰陽法師または法師陰陽師、唱門師といった民間の陰陽師が登場します。

宮廷にあり、国家鎮護のためにトップシークレットとされていた天人相関説も、中国伝来のものである以上、当時の知的エリートであった僧らから、様々な思想とともに占い方法も流出していきます。

これが陰陽法師として活躍する民間人増加の背景にあります。

もちろん需要があるために登場した陰陽法師ですが、有名なところでは、蘆屋道満がいます。

また、陰陽法師は呪詛を行うことから、一般には卑しい人々と考えられていました。

出自が卑賎であったことも関係があると指摘する研究者もいます。


密教系占星術師・宿曜師(すくようし)

陰陽師のライバルともいえるのが、宿曜経をもとに占う宿曜師が、鎌倉幕府では採用されていました。

宿曜道とは、天武天皇も占いにつかったという式盤にもある二十八宿(二十七宿)の本命星と、日・木・火・土・金・水・月の七曜を使った占星術で、インド起源とされています。

この宿曜師と陰陽師は競合関係にありながら、相互に連携していたともいわれています。

また、天台密教の加持祈祷には熾盛光法というものがありますが、これは宿曜道における本命星が、惑星などと接近したときなどに行われる祈祷です。

陰陽道は、宿曜師の占術も取り込みながら、時代に合わせた活動を行っていきます。


清明神社は愛宕の僧

わたしも毎年参拝していた清明神社ですが、安倍清明の本当の屋敷は、現在の京都ブライトンホテルのあたりにあったそうで、清明神社のある場所とはまったく関係がないのだそうです。

しかも!
安倍清明の関係者が清明社(当時)を名乗っていたわけではなく、愛宕の僧が居住していました。

それがわかったのは、1754年に行われた安倍清明七百五十年霊社祭にあたって、清明の子孫である土御門家が調査した結果です。

京都の愛宕山は山岳修験者の霊場であり、山伏、つまり陰陽法師の集団がいたものと考えられています。

つまり、民間系陰陽師が、安倍清明の名前を使って活動していた拠点だったわけです。

こういうことを知ると、清明神社のありがたみも薄まってしまいそうですが、土御門家は民間系陰陽師を組織化し、民間系陰陽師の活動を認めることで、自らの地位を固めていったという歴史的経緯があります。


陰陽師たちの日本史」は、陰陽道と陰陽師の歴史を紐解いたものですが、実は日本の天文学の歴史にも通じる内容です。

天文学と暦の関係や、江戸時代の改暦にまつわる人物相関図など、大変興味深いものですから、ご興味のある方は、手に取ってみてください。


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